昭和四十七年八月十五日 朝の御理解

x御理解 第八十九節 「此方の道は傘一本で開くことができる」

 お道の信心はお徳を受け、天地の大徳を受ける。氏子がそういうお徳を受ける事の為に生まれた宗教だと思う。
 こういうふうに頂いたが一番間違いないように思うです。金光教は大体、現世利益と申しますかねぇ、おかげ、いわゆる庶民の宗教だというふうに言われとります。
 お取次を頂いて、生活の万端の上に、いちいちお取次を願い、お取次を頂いて、おかげを受けていると。
 ですから、そのやはりそうした、おかげを受けるのです。それこそ牛馬の事るいたるまで、身上のこと一切お取次を頂いておかげ頂けれる道でもあります。
 けれども、本当のところは、私は、そういうところをひとつ神様をわかるというか信心の基礎に頂いて、そこから本気でお徳を受けていく、いわゆる傘一本で開く事が出来るという程しのもの。
 何もいらない。傘一本で開く事が出来る道。そういう道を体得するにあると思うのです。まあ、ここで私がいろんなお取次をさせて頂くのは、確かにお徳を頂くという天地の御神徳を受けるという信心を、皆さんにお取次させて頂いておるように思うのです。
 それが、どうも中途半端になって、只、おかげの世界だけでやれやれと腰を下ろすような人達があるという事。ここからがもう、本当の信心。本当のおかげ。
 それこそ傘一本で開く事で出来れる道と思わせて頂くのに、おかげの世界だけで終わってしまう、惜しい事である。
 それは例えば、どのようにおかげを受けたからと言うて、成程おかげを受けるという事は有難いですよねぇ。万事金銭のお繰り合わせを頂いたり、健康のおかげを頂いたり、又人間関係の上に様々なおかげを頂いて、本当にまあいうならば、幸と不幸の境に立たせて頂いた時に、信心頂いておったおかげで、お導きを頂いたおかげで、そこから難儀な事にならんでもすむ。
 段々幸せになっていくおかげを受ける。だから、それだけでよさそうなものだけれどもです、それでは、けれども神様が助かって下さるという事にはならない。
 信心して、どうぞおかげを受けてくれよというのは、やはり信心して、御神徳を受けて、いわゆる傘一本で開ける程しの道を開いてくれよというのが私は神願だと、私は思うのです。
 神の願いというのはそこにある。昨日私、ある方のお取次をさせて頂いた。そうですねぇ、月のうち五、六回お参りするでしょうか。おかげをよく頂きますし、人間もよく出来ておりますし、商売にも熱心ですし、もう本当に一年々、段々そのおかげを受けて何とはなしにおかげを受けておる。
 家の中でその人が一人の信心ですけれども、おかげを受けておる。その事の私は、お礼を申させて頂いとりましたらですね、上に丸い舞台があるんですよ。
 それに高い所にありますから、段々が輪にそうてまん丸い段々がある。それがいろいろありましてね、二、三段登れば舞台があると、もうとても何十段あるじゃろうかといったような上に、又舞台があるところ。
 というような場面を頂いて、二、三段登ったところのね、舞台で見事に踊っておるというような状態を頂きました。
 ははあ、教祖様がお言葉の中に、「氏子の根に応じて」という事をおっしゃった事がある。根に応じておかげを受ける。根に応じて。
 例えば辛抱強い、又は辛抱がない。又はそれはその人のめぐりの深浅という事もあろうけれども、そういうふうにして、おかげを頂いておる人達の姿を見るとですねぇ本当に皆さんのように日参り、しかも夜参りまでなさって、一生懸命信心修行をし、しかも永年続けておられる方達の信心というものを、只、おかげだけが、もし目当てであるとするならば、そういう信心はせんでもよいという事です。
 けれどもね、そういう人達の場合はね、非常に生き方が素直らしいです。いわゆる人間がですね、いうなら近所隣からでも評判のよいような人です。
 それに信心という鬼に金棒的なお取次を頂いておかげを頂いている。いうなら、商売に熱心である。商売人同志の付き合いもなかなかいい。
 あの男は真面目とか、あの人は親切だとかというようなね、そういうものを何とはなしに備えておるですね。
 皆さんここで参りもせんばってん、おかげを受けておるという人達を見てごらんなさい。確かにそうです。いうならば、まあ、めぐりが少ないと言うかね。
 ところが、私共とか、皆さんの場合どういう事かと言うと、もう二十段も登った、二十五段も登ったというように、登っておってもです、まあだ、舞台に上がってないという事です。いうなら、大向こうから見られる程しのおかげをまあだそれを登っておる途中なんだ。
 けれども、私はここで思わせて頂くのは、そんなら、そういうい例えばいうならば簡単な信心でと申しましょうか、そげん教えを頂くでなし、参ったからというて、そんならテ-プの御理解でも頂いて帰るという事もない。時々ここで御理解どんがありよる時には、御理解を頂くという、月次祭にども参って、御理解を拝聴するというくらいのこと。
 だから、これはです、どこまでもおかげの世界だと思う。おかげの世界だけしかないという事です。ところが、私共は思わにゃならん事はね、そんなら今日ここに朝の御祈念に沢山のお参りになっておられる一人一人の事を思うてみてです、本当にめぐりが深い、めぐりを感じんわけにはいかないような状態の人が多いのです。
 やはり御神徳を受けるという事は、只、信心が今申しますように二段か三段登ってももう、おかげの世界に住んで、難儀な事はひとつもない。
 だからそう信心修行もせんでおかげを受けておる。ところがめぐりが深いために、拝んでも願っても修行してもおかげの形というものは、そう見えてこないけれどもです、その心の状態は、段々高められてきて、まあある意味合いでは、皆さんの場合は根に応じてとおっしゃるなら、この氏子はやはり根が強いと。
 だからおかげの世界ではなくて、神様の願いであるところの神徳の世界を受けてくれ、また受けさせようとなさる働きがあっておるのだと、まず思わなければいけません。そこで私共はです、わからせて頂くことは信心とは、御神徳を受けていく事だという事。御神徳を受けるために、金光様の御信心はあるんだという。おかげだけなら教祖が出現前でも沢山頂ける信心は沢山あった。
 けれども天地の御神徳、御信用を本当に受けられたというのは、その教祖宗祖の信心にみても、それ程しのものを感ずる事が出来ない。
 教祖の上に天地の親神様の御信任が厚く受けられた。これは教祖金光大神にだけ打ち明けられたというような、いうなら場面というものを、教祖の御信心の中から頂くことが出来る。
ですから教祖金光大神は、本当に人間が御神徳を受ける事のために取次の働きがはじまったというてもよいのだと。
 そこで私共は、日々御神徳を受けさせる事のための信心修行をさせて頂いておるという事になるとです。
 本当に御神徳を受けさせて頂くための信心を行じなければおられない事になる。ところがそんなら、合楽で皆さんの信心を見ておると、まあ根気よう信心を続けておられる。けれどもどうもそのすっきりと御神徳を受ける事のための信心ではなくて、そのへんのところガタ-ッと、折角登りよったところを又、下の方へ降りて行ってしまうといったような傾向があるという事です。
 例えばおかげを受けるという世界であってもです、その一つの事を、例えば行じぬくとか、一つの事を見事にいうならば、生活の上に表しておるとかというような人達です。お取次を頂いて、そげん修行せんでもよかという人達は。
 皆さんの心の中に、皆さんの周囲の人を思い浮かべてごらんなさい。ははあ、誰々さんなんかそげん参らっしゃらんでん、月次祭ぐらいした参らっしゃれんばってん、おかげ頂きよんなさる。
 けれども、その教えを守という事がです、いうなら、人間的に素晴らしい生き方をしよる。又はこれだけはというものを、きっちと握っておるという事。崩さない。
 私共は漠然と御神徳を受けるための信心を頂いておりながらです、御神徳に触れよるかと思うと、又下にガタッと落ちてしまうような事になってしまっておる。
 いわゆる徹したものがない。これではいつまでたっても、一本の傘というかいうなら、一本の傘の徳というものを受けることは出来ない。
 降っても照っても有難い事だなあ、この傘一本で濡れることもいらん。暑い思いをする事もいらんというようなです、そういうお徳の世界というものがいつまでたっても開けない。次の九十節に「上から下へ水を流すのは容易いが」とおっしゃっておられます。
 私は金光様の御信心でも、今私が例をもって、私の心の中に浮かぶ信心は、ほんとこがしこおかげを受けとるなら、まちっと、神様の方へ打ちこみゃよかとえ、きちっと神様へ向かえやよかとこえと思うような人達がいくらもあります。
 けれども、その人はです、そのおかげの受けものをもっておるということ。例えば隣近所の人の評判がよかとか、なかなかこれだけは行じておられるとか、例えていうなら、商売人同志でも、あの男はなかなか間違いがないというように、人間的に信用を持っておるとか、お参りはせんけれども、もうとにかく信心させて頂いて、金光様のおかげを頂かなければというものは一途に持っておる。
 けれども絶対腹は立てんぞといったような修行を、本当に完璧にやっておるという人達があるのです。
 これはねおかげの世界にはどんどん入って行くです。この生き方でいけば。けども信心修行なしに、御神徳は受けられないという事。だからこういうのは上から下へ水を流すようなものです。
 ところが皆さんが一人一人、思わにゃならん事は、本当にめぐりが深いなあと自分でめぐりの自覚というものを、まあ感じなさるだろうと思うです。
 だからそのめぐりの為に様々な難儀がある。そのめぐりのための難儀、その難儀のおかげでそんなら力を受けて行こう、神徳を受けていく信心をさせて頂く。そこからです、匹夫の凡人から開くのじゃから、という事は、匹夫の凡人という事はめぐり多い私達という事。
 匹夫の凡人から開くのじゃからいうなら、傘一本で開かせてもらうのぞと。仮に一時は難しい事があっても辛抱していくうちには、徳が受けられるという事になるのです。だからここのところが今日私が皆さんに聞いて頂いておる。
 その辛抱していく打ちに徳が受けられる。例えば合楽を知って、二段か三段登っただけでもう、その人の舞台がある。その自分が商売なり事業を例えば、自分がそれに打ち込んで一生懸命していきゃ、ああた、そして、人間が大体まともにあるから、濡れ手で粟のつかみどりという心にならずに、真面目にやっていくから同業者の受けもよい、お客さんからのいうなら、信用も段々出来てきた。
 いわゆる人間の信用が出来てきておかげはいやが上に頂いていくけれども、これはどこまでも、人間だけの信用だという事。いうなら人徳である。
 神徳というものは、神様に打ち向かわずしてから、頂けるはずは絶対ないです。そこで、そんなら、お参りしなければおられない程しの難儀、お参りしなければ助からんという程しのめぐりの自覚、そして、成程、人間的に自分は恵まれていないなあと人に好かれん性分であるとか、どうも自分は短気で困るとか、すぐ腹が立つとか、直ぐぐ人のせいにするとか、人の足元ばかりが見えるとかというようなです、ですからこれをお取除かせて頂くことの為に、信心辛抱が必要である。修行が大事であるという事になる。
 例えば今申しました、そういうところを実に見事におかげ受けている人があるんです。人柄の上で、もう生まれつきにだから、そういう人はお徳の世界に行かれんというてもよいくらいです。
 そういう人達が、いよいよ一段と信心修行でもやるようになると、本当にいうならまともな神徳を受けてゆくでしょう。けれども、なかなか人間という者は、楽な方へ足をつっこむともう楽な方から、足を抜け出されないというような事を、いつか光昭が言っておりましたように、やはりおかげだけで頂いていくもんだから、だからあの世に行った時には、そうにゃおかげは頂いたばってん、あちらではお徳はなかったという事になるのです。
 そんならお徳というものは、あちらだけではない、そんなら、この世にも残しておける。そんなら現在の日々の上にも、お徳を受けるという事は、傘一本で道をひらくという程の事であるから有難い事になる。
 今日は昨日私が頂いたお知らせの中から、二、三段でもうそこに舞台があるといったような人達は、もういうならば、一生懸命に自分がそんなくらい働かにゃいけません。こと、神様ごとだというても、とにかく忙しゅうて忙しゅうてというて、忙しさにかまけてしもうても、おかげは受ける、神様に打ち向かわなくても。
 ですから、どういう事になるかというと、自分が一生懸命に私が働いて神様からはちょこっと、お手伝いをしてもらうくらいなおかげ。
 自分が働く、そして神様から力を少し貸してもらうというようなおかげ、ですからこのおかげは、年々おかげを頂いておるというても大した事はない。
 ところがそんなら、お徳の世界へ向かって進んでおるというような人達の場合は、傘一本でひらく事が出来る程の道ですから、神様が先頭に立ってござる。お徳を受けておかげを受けるという事は、いつも神様が中心、いつも神様が先頭。
 そして私共はその後から、只、恐れ々とついてゆけばよいという神様が中心。そういう信心を生活をです、私はお徳を受けていく信心だと、だから、勿論そのへんのところがです、ある意味に於いては、あいまっていかねばならんのですけれども、やはりその中心をそらさずお徳を頂いていく事の為の金光教という信心がなされてゆかなければならない。
 成程、あの人達は二段か三段登っておかげを受けておる。おかげの世界だけをみるとうらやましいごとあるけれども、その上にあるところの舞台。そこの舞台は神様が中心になって踊っておって下さる。
 私共はどこまでも脇役というか、その端の方におればよい。神様が中心で働き動いて下さる世界。そこには傘一本で開けれる世界があるのです。
 一時は難しいけれども、私はそこんところを、一時は難しいというようなおかげを頂く、お徳を受けていく人達の場合、確かにそのその家のめぐりの深さというか、個人々の持っておるめぐりの深さというものをです、本当に感ずるです。
 ですけれども、私共は、一段一段登って行っておるという事、二十段も三十段も登らせて頂いてです、もう他の者では見る事の出来ない世界を心の中に見ておる私はおかげを楽しみながら登るのでなければならない。
 それをお徳を受ける世界という事を願いでなければ、もう商売が例えば思うようにならないと、もうそこで折角登っておるところを、又下へ降りてしまうというよな事ではですね、もう只、それこそおかげの世界だけで終わった方がよいように思う。
 教祖様の奥様が、教祖様が裸足の行をなさる時、隣近所の人達が、いろいろと噂をする。文さんはもう信心気違いになってしもうてから、もうぞうり作る暇もなかじゃろうかと言うて笑う。
 それを耳にされる奥様がやはり人間心を使われる。そん時教祖様は、そういうような事ならばです、これから私が田に畑に出る時には、牛を引っ張って行く時には、牛に草履をかけといてくれ。鍬をかついでおる時には、私が鍬の先に草履をつけていこう。そして人がとやこう言うたら、いや作ってちゃんと持っているんだけれども、どうも近頃足が悪うて、裸足がよいからというふうに言えというふうにおっしゃった。 そこで奥様の顔も立ちゃ、隣近所で悪口言うとった人の顔にも返事が出来る事になり、自分自身の信心も進められる事が出来るというお話がお伝記の中にはございます だからいうならばです、おかげの世界だけに住む人は、こういう生き方をします必ず。人からも信用受けんならんけれども、例え人から笑われてもよし、悪口をいわれても神様の仰せ、ここだけは曲げられんという生き方なんです。御神徳を受けるという事は・・・・・。だからやはり難しい。
 さあ今日は親戚の誰々が死んだ、近所の親戚の者を連れのうてお悔やみに行けとこう頂いた。そこで親戚の者を連れのうて、御本人の家にお悔やみに行かれると、当の本人が出てこられた。
 お伝記にはそんな事は書いてないけれども、それこそ面火(つらび)の燃ゆる思いをなさったんではなかろうかと思う。本当に連れのうて行った親戚の人達に、それこそ、すみません、すみませんとおっしゃったに違いない。
 又はあんたが神様、神様ちゃうけん私どんまで、迷惑するじゃないかと、例えば言われなさったかもしれん。
 古川家の御信心はその時にはじまったと言われておるですね。それまでは見方が違うとった。文さんという人ばっかりは、こと神様ごとと言うたら人から笑われるとか悪口言われる事位は、もう問題にしない程しの神様へつよい信にいわば惚れ込まれて古川家は御信心になったという事が御伝記に載っとります。
 そういう人もあったろうけれどもです、そんなら、秋永先生なんかが、私が人から笑われたり・悪口を言われておった、もうその度に、母たちはもう非常に心配しよっだ。秋永先生が来てから、久保山先生が見えてから、おばあちゃんやら、おじいちゃんは心配せんでええですよと、大坪さんの信心は間違いなかて、人が何と言うても間違いなかですよと、言うて下さっておったのは、秋永先生やら久保山先生でした。
 もうその時分は、本当に人が笑う、又悪口を言うに違いないようなところを通らせて頂いとった。その時の私の心境というのは、例え人からはどげん悪う言われても、それは笑われてもです、神様から悪く言われちゃならん。神様から笑われちゃならんというのが私のその時分の信心でした。
 教祖さまはその時でもです、やはりある意味合いではちったシュンとしとっなさったつじゃなかろうか。神様が自分に本当の事を言うて下さらん事は、まあだ、まあだ自分の信心が足らんからだと思うておられたに違いない。
 そしたら神様からお声があって、「戻しの風は十層倍、々」というて帰れと神伝えがあったと言われております。
 その戻しの風は十層倍という、それを受ける事が徳を受けられる事だ。それが傘一本で開ける程しの事になってきた。
 だから、教祖の場合でもそこんところを、あいまっておられますからです、おかげの世界にも住まわにゃんならんけれどもです、お徳を受けさせて頂くという事が芯であるという事。金光様の御信心は。
 いわゆる天地金乃神様の御信任、御信用を受けるという事が、だから場合には信心の薄い者、信心のわからない者は笑うたり、そしったりするような事があるかもしれんけれども、自分自身の人間的ひとつの欠陥とでも言うか、めぐりとでも言うか、そういうようなものにいよいよ本気で取り組ませて頂いて、一時はものが難しゅうて暇が要るという、暇のかかっておる間に、いわゆる改まるところは改まって、研くところは研かせて頂いていこう、そのうちに、おかげが受けられる。その辛抱していくちにお徳が受けられるとおっしゃっておられる。
 そのお徳の受けられる、只、上から下へ水を流すように容易い。只、おかげを願わず、まあ願ってもいいけれども、それだけにとどまらず、匹夫の凡夫であるいう自覚を持たして頂いて、難しいところも通らせて頂くけれど、その難しいところを通る間に、研きもしょう、改まりもさせてもらおう。その辛抱のうちに徳が受けられる。
 もう、こういう高いところまで自分は登らせて頂いておるという事を楽しみにですその舞台に出るところを願わせて頂いたらよい。
 その舞台に出たらね、信心は今度は本当にいよいよ嬉しゅうて、楽しゅうて有難とものとしてもう言いようのない程しのいうなら、もうそこにはね、いうならば、極楽の世界ですから、登りつめたそういう信心辛抱させて頂くうちに、辛抱の徳が受けられたという、その世界は、それこそ要るものは有るのであるそこに。
 必要なものは必要に応じて、それこそ例えてもう忙しゅうて参る暇もなかと言うて只、商売繁盛の事だけを願っておるというような方達はおそらく、
 私の知ったある総代さんがね、ある教会の私が信者時代お話をして回っておる時分「私も大坪さん、まあ二年ばっかりすると六十五になる。六十五になったら私はもう教会の為に一生懸命御用させてもらおうと思いよる」と。
 「そげな事いわずに今日出来なければあんたが二年先に出来はせん」ず-っと遠方へ植木売りに行きよりました。だからもう子供やら孫までが手伝いするごとなっとるから、もういい加減でここでふんぎりをつけてしなさらにゃと。
 そげなこつ言うてからですね、半年目くらいに金比羅さんに参りなさった。そしてそこの温泉でちゃんと温泉の中で浮いちゃった。私はそれを聞かせて頂いた時に、本当、私が言うたことは私じゃなかった。あれは神様が言いござったと思うくらいでした。半年後でしたよ。とってもいい人でした。ある教会の総代さんでしたがね。
 そん時どんが丁度御本部参拝があったばってん、近所の人達と一緒に金比羅さんの方へ行かっしった。そして金比羅さんの温泉のお湯の中でちゃあんと浮いてござった もう本当に私は、半年前に私が言うた事をです、【】さんになってもでもね、ほんなこて大坪さんがあん時言うた通りにいう事聞いとったら、まいっときくらいおかげ頂いとったろうもっにと、思いなさろうと思うくらい。
 だからですね、おかげの段階、おかげだけを頂いていく、そんなら素晴らしいよい人、その人は、人からも信用がある、教会でも皆あの人の言わっしゃる事ならというふうに、人物がいいもの、万一、けれどもどこまでもおかげの世界である。
 だから、もう二年間おかげを頂いてから、それから先はと、ところが実はもう半年後には亡くなられなければならない運命じゃった。
 これがどうでしょう。お徳を受ける事が信心だというふうな頂き方だったら、そのへんのところがすっきり出来たんじゃなかろうかと思うです。
 金光教の御信心は、御神徳を受けさせて頂く事の為にある宗教だと。願う氏子におかげを授けとおっしゃるから、まず私共おかげを頂かねばならんけれども、けれどもそのおかげを受けるからと言うて、おかげのところだけで、足踏み状態になっておったら、その人は六十になっても、七十になってもやっらり一生懸命働かにゃ、忙しゅうて参り暇もありませんという事になってくる。
 それで終わったんじゃいかんでしょうが、皆さん、私は合楽がとりわけそこんとゃろをですね、皆さんが金光教はお徳を受ける事の為にあるというと同じように、合楽教会は人間氏子がお徳を受ける事の為に、合楽というところは御霊地だと中村さんが頂いておられるように、合楽というところはたくさんのカッパが出来とるとおっしゃる。という事はお徳を受けるという事。
 お徳を受ける人がたくさん出来なければならない為に合楽はあるんだというような思いで、合楽に御神縁を頂いておるという事を、そこにそういうふうに生かしてゆかねばならないと思いますね。
        どうぞ。